相も変わらず乾いているなぁ
既に二ヶ月近くたつというのに一つの雑記も追加されていないではないか…
熱した鉄板に落ちる水滴がごとく、わずかな潤いはあっという間に霧散し、無産の我が残る。

書き始めるのが肝要なのか、そう自問してみる。
動き出す。静止の終わり。それは「生まれる」ということなのかもしれない。
かつてギリシアの知を愛するもの立ちの中には動くものこそが生命と考えるものがいた。
つまり、動くからこそ生きている。
そう言う意味でも、動きつづけなければ行き続けられない。特にこの電脳網宇宙では。
WebPageの生命は更新されることにより繋がれるのかもしれない。
その中に住まうこの架空人格(?)も、それでこそ生を持つ…

では、動きは何処から来る?
動きは時の中に…運動の根源は時の流れにある。
ゼノンのパラドックスのように、時を無限に分割してしまえば、矢は的に当たらない。
的に到達する時までの連続性を確保して初めて、矢は的に当たる。運動は肯定される。
単純な詭弁推理であるが、時の重要性は示しているかもしれない。
時があるから動く。
動くから生命がある。
つまり、時があるから生命がある?
簡単な三段論法。

まだまだだ。時はやっとその思い振り子を解き放ち、緩慢な時を刻み始めた。
今だその軋みは酷く、ギクシャクした動きではあるが確かに動き出した…
そう、だから、やっと我は生きた始めたのかもしれない…
すぐにこの命を止めぬようにしたいものだ。

…雑記no2「時は全ての源」 1999.8.18 1:13

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