家庭の過程

CLANNAD AFTER STORY 二次創作小説

 今日、あたしの勤める保育園に、あいつの娘が入園してきた。渚がその命と引き換えに産んだ汐という娘だ。だが、それだというのに父親である朋也が姿を見せることはなかった。代わりに汐ちゃんを連れてきたのは、あいつの義理の親、つまり渚の両親である早苗さんと秋生さんだった。
 早苗さんから聞いたところによると、あいつは渚を亡くして以来、父親であることを放棄してしまっているらしい。それでも、あいつがいつの日か立ち直ることを信じて、汐を代わりに育てているということだ。あいつが本当の『父親』となった日の為に。あいつを信じて語る早苗さんの姿を見ていると、朋也は本当に素敵な家族の一員になれたんだと思う。今は確かに甲斐性無しだけれど、あたしもあいつがいつか本当の『父親』となって汐ちゃんの送り迎えをする日が来ることを信じている。
 学生時代を知る心無い連中は、朋也の今の姿を見たら「それ見たことか」といった感想を抱くだろう。あたしも正直、情けないとは思う。でも、あいつは周りが言うような悪い奴じゃない。ただ、不器用なだけだった。

 直情的短絡思考馬鹿。

 誰かの為にこそ一生懸命になれるあいつの優しさ。それを知っているからこそ、早苗さんも秋生さんも信じて待つことが出来るんだ。
 そして、あたしも。

 そんなあいつにとって渚を失うということは、即ち生きる意味を失うことだったに違いない。あいつにとって、渚は生きる理由だったんだと思う。渚を幸せにすることが自分の幸せだと、本気で思っていたんだろう。それだけに、今はどうしていいのか解らなくなっているんだ。
 でも、切っ掛けさえあれば。
 見失ったものを思い出すことが出来れば。
 きっといい『父親』となれる筈だ。
 かつて、渚との出会いが切っ掛けであったように。

 渚と出会ってから、あいつは変わった。それまでは、何事にもどこか冷めた取り組み方しかしなかったのに、渚の為に本気になったあいつはそこらの奴では真似出来ないぐらい一生懸命だった。
 渚の夢だった演劇部の創立の為に駆け回っていた。
 留年して友人の居なくなった渚の友達になってくれと、あたしと椋に引き合わせた。
 春原の差し金で、バスケ部と3on3で戦ったこともあったっけ。最後は、あいつが不恰好だけれどもシュートを打って勝負を決めたんだった。
 創立者祭では、舞台に立つ渚をなりふり構わず叱咤してた。
 そんじょそこらの奴らでは太刀打ち出来ないぐらい、渚の為に一生懸命だった。

 ただ、それが自分の為でないことが哀しくなかったと言えば嘘になる。

 そう、あたしはあいつのことが好きだった。
 出会ったときから。
 渚があいつにとってかけがえのない存在になってからも。
 ずっと。

 …今も、変わらずに。

 驚いた。
 いつもは早苗さんが立っている筈の場所に、今日は懐かしい顔があった。
 場違いな作業着に身を包んでいるけれど、間違いなくあいつだった。他の保護者に怪訝な顔をされながらも、礼儀正しく挨拶をしている。
 最後に姿を見てから、もう5年になるだろうか。そう、最後に見た姿は、渚の葬儀での悲しみにくれた姿だった。全く、嫌な姿を最後にしたものだ。
 そんなあいつが突然目の前に現れて、嬉しさよりも戸惑いが大きかった。いつかは現れると信じていたけれど、それが今日だとは思っていなかったから。遠目にも、既に元の朋也に戻っていることが感じ取れる。そう思うと何か、鼓動が速くなってきた。こんな無意識の反応に、自分の気持ちが未だ変わってはいないことを再確認させられてしまう。直ぐに声を掛けたいけれど、ちょっとこの状態では上手く話せる自信が無い。深呼吸して気持ちを落ち着けないと…
 何回か深く息をついてやっと落ち着いた頃には既にあいつの姿は無かった。残念だけど、まぁ、こうやって現れたということはこれからもあいつが送り迎えをするということだろう。チャンスは幾らでもある。明日こそは声を掛けよう。

 次の日も、期待通りあいつは現れた。今度は心の準備が出来ていたから昨日みたいに取り乱したりはしないで済んだ。直ぐにあいつのところへと駆け寄る。
「朋也、朋也でしょ?」
 すっかり『父親』の顔になったあいつに、意識して昔と同じように声を掛ける。久しぶりに話せてホントに嬉しいけど、必要以上に顔に出ていないかちょっと気になった。
 あいつも、あたしの突然の登場に流石に驚いたようだ。こっちも昨日驚かされてるから、これでおあいこだ。ただ、何をそんなに驚いているのかと思ったら、失礼なことにあたしが先生をしているのが心底意外だったようだ。
 でも、こうでないといけない。やっぱり、こういうノリが一番だ。あいつもあたしも、根っこの部分は変わっていないんだ。だから、直ぐにあの頃と同じように軽口を言い合いながら話すことが出来た。椋じゃないけど、汐ちゃんの担任になったのも何か運命的なものを感じてしまう。ついつい、調子のいいことを言ってしまう。
 でも、ホントに、あたしに出来ることだったら何でもしてやりたい。
 だって、やっぱりあいつはあいつだったから。

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 後になって早苗さんから聞いた話だが、あいつは夏休みに汐ちゃんと二人で旅行に行ったそうだ。勿論、素直に二人で旅行に行くような状態ではなかったから、早苗さんと秋生さんの差し金だったのだろう。渚を失っても、あいつは素敵な家族に見守られているんだ。
 その旅の途で、あいつは大切なものを見つけたらしい。それが立ち直る切っ掛けとなった。そうして、旅行の後から汐ちゃんと暮らし始めたということだ。汐ちゃんが、夏休み明けから凄く明るくなったのはそういう訳だったのだ。あいつは今、汐ちゃんの為に、かつての渚に対してと同じように一生懸命になっているのだろう。

 あの日以来、あいつは毎日欠かさず汐ちゃんの送り迎えをしていた。その度に、短い時間だけれど言葉を交わすことが出来た。内容はいつもの馬鹿話だけれど、言葉の端々に汐ちゃんへの想いが感じられる。すっかり親バカでバカ親だ。『父親』としての自覚を得た朋也は、誇張ではなく全身全霊を掛けて汐ちゃんを育てているというのが伝わってくる。
 そんなあいつの娘の面倒をみてあげられることが嬉しい。まぁ、えこ贔屓はしないけれど。

 この幼稚園の門からあいつを送り出して、夕方にはあいつが迎えにくるのを待つ。いつの間にか、それがすっかり日常となっていた。『先生と保護者』という関係が、学生時代よりも朋也を近くに感じさせてくれる。
 でも、あいつには渚がいた。そして、今は汐ちゃんがいる。それは、決して消えることのない事実。こうやって娘の面倒をみるという形で力になれても、あたしにはそれ以上踏み込むことが出来ない。学生時代と同じ。自分の気持ちを伝えてしまったら、友達でいることさえ出来なくなるかもしれないのが怖い。そんな勇気の無さが嫌になるけれど、失いたくない。朋也と楽しく過ごせる時間を。刹那的かもしれないけれど、これがあの頃から変わらないあたしの本心だ。

 何度、あいつの送り迎えをした頃だろうか。ちょっとした秋のイベントが近づいてきた。そう、運動会だ。運動会には保護者や教師参加の競技もある。あいつはきっと汐ちゃんにいいところを見せようと張り切るだろう。
 更に面白いことに、園長の話だと腰を痛めた先生の変わりに秋生さんが教師のチームで参加するということだった。秋生さんと朋也の対決はきっと見ものだろう。そんなことを考えて、あいつの帰りを心待ちにしながら授業を行う自分がいる。仕事を疎かにしてはいないけれど、あいつのことを考える時間がどんどん長くなっている。ホントにこのままだと汐ちゃんを贔屓してしまいそうだ。

 授業が終わり、いつも通りやってきたあいつに運動会の案内プリントの説明をする。汐ちゃんもあいつのいいところを見たがっていた。確かに、朋也は保護者の中でも特別若い分有利だろう。しかし、秋生さんが出るとなると話は違ってくる。どうもそれは知らないようだから秘密にしておこう。きっと直ぐに本人から聞くことになるだろうけど。この間もロードワークしてたみたいだし、すごい気合の入れようだ。あそこまで本気になる人も珍しい。

 この時点では、あんなことになるなんて夢にも思っていなかったから、ただ状況を楽しんでいた。あいつもそうだったんだろう。
 でも、楽しいことは続かなかった。幸せになろうとするとそれを奪われる。あいつはそういう運命に捉われているんだろうか?

 汐ちゃんが熱を出したと連絡があった。
 最初は、ちょっとした風邪か何かだと思っていた。けれども一向によくなる気配は無く、それ以来汐ちゃんは休み続けていた。
 汐ちゃんの熱が風邪ではなく、原因不明の発熱だということをあいつから聞いたのは、運動会まで一週間を切った頃だった。それは、渚と同じ症状だということだ。
 今、あいつはどんな気持ちだろう?
 渚を失ったときのことを思い出しているのではないだろうか?
 やっと、父親になれたのに。こんなに短い時間で再び試練に立ち向かう羽目になるなんて。あたしに力になれることはないだろうか?

 結局、あんなに楽しみにしていた運動会の日になっても熱が下がることはなかった。汐ちゃんも朋也も、当然運動会には現れない。その代わり、必要以上に張り切る秋生さんは大活躍だった。特に、リレーではアンカーでぶっち切りの一位になっていた。その姿を見ていると伝わってくる。子供のようにはしゃぐ秋生さんは、汐ちゃんと朋也の分まで楽しんでいるつもりなんだ。
 そんな秋生さんの姿を見ながら、渚の卒業式を思い出す。かつて、同じように熱を出して卒業式を欠席した渚の為に、あいつが春原達を誘って親友一同で行ったものだ。あれだけ楽しみにしていたんだ。この調子だと、又、汐ちゃんのために運動会を開くとか言い出しかねない。勿論、そのときは全力で協力するつもりだ。

 その後も、汐ちゃんの熱は一向に下がる気配を見せなかった。自分の教え子が病気で長期に渡って休んでいるんだ。様子を見に行くのもおかしなことではないだろう。でも、なんとなく汐ちゃんをダシにしてあいつに会いにいくような気がして中々行動に移せないで、電話で様子を聞くだけに留まっていた。

 そんなある日、早苗さんから電話があった。何か大事な用件らしく、近くのファミレスで会うことになった。
「わざわざ来て頂いて済みません」
「いえ、会って話したいと言うからには大事な話なんですよね? …汐ちゃんのことですか?」
 早苗さんにあたしが呼び出されるということは、やはりそれしか考えられない。
「はい。そして、朋也さんのことです」
「朋也の?」
 汐ちゃんは解るが朋也が一体どうしたというのだろう? 電話では何度か話しているが、特に変わった様子は無かった筈だ。疑問に思っていると、驚くべきことを聞かされることになった。
「実は、朋也さんが仕事を辞めてしまったんです」
「え? なんですって?」
 一瞬何を言っているのか分からなかった。
「汐の面倒を看るにはそうするしかないって。わたしと秋生さんも必死に止めたんですが、聞いてはくれませんでした。それどころか、わたし達の援助も出来る限り受けないつもりみたいなんです。これまでのツケを払うんだって。家族だから頼ってもいいと言っても全然聞かなくて」
「…ってあいつはそれでどうやって面倒看る気なんですか?」
 全く、驚いた以上に呆れた。仕事を辞めて、更には早苗さん達の援助までも拒んで、一体どうしようというのだろうか?
「まだ貯金があるからって。朋也さんは『こう』と決めたら引かない人ですから。今は、わたし達ではどうしようも無いと思って折れることにしたんです」
 なんてことだろう。朋也らしいと言えばらしいけど、そこまで無茶をしなくっても。そこまでして何もかもを一人で背負わなくてもいいのに…
「それで、藤林先生にお願いがあるんです」
 唐突に名前を呼ばれてびっくりする。改まった様子にこちらも居住まいを正す。
「朋也さんを助けてあげてください」
 しっかりとあたしの目を見て言った。
「え? でも…」
 余りに真摯なその視線に耐えられず目を逸らしてしまう。
「今、朋也さんを助けることが出来るのは藤林先生しかいないんです。汐ちゃんの担任で昔馴染みの藤林先生になら、朋也さんも意地を張らずに頼ることが出来ると思うんです」
 真剣な口調で語る。
「でも…」
 信頼してくれるのは嬉しい。でも、あたしなんかで本当に大丈夫なのか?
「それに、失礼かもしれませんが、藤林先生は朋也さんのことが好きなんですよね?」
 表情を和らげ、女学生のような笑顔でこんなことを言う。
「え、きゅ、急に何を言い出すんですか!」
 思わず声が大きくなる。頬が熱くなっているのを感じる。
「隠さなくてもいいんですよ、見ていれば解ります。朋也さんは素敵な人ですからね」
 先ほどまでの真剣な表情とは打って変わって、明るい笑顔で言う。
「好きな人の傍に居たいというのは自然なことです。そして、朋也さんには、そういう人が必要なんです。いつまでも、渚に縛られていてはいけないんです」
 少し寂しそうだけれども、笑顔だった。
「渚のことは、気にしなくていいんです。今、朋也さんの傍にいてあげられるのは藤林先生だけなんですから」
 朋也のことだけではない。この人はあたしのことまで考えていてくれたんだ。
「でも…」
「渚は私達の娘です。でも、その夫である朋也さんも、私達の息子なんですよ。自分の息子の幸せを願わない親なんていませんよ」
 やはり笑顔で、言う。なんて、強いんだろう。あたしには到底真似出来ない。でも、ここまで言って貰っても、あたしに渚の代わりが務まるかどうか不安で仕方がない。
 ああ、まったくさっきから『でも』ばっかりだ。なんて、後ろ向きなんだろう。
「それと、渚の代わりとか、そういう風には考えないでくださいね。渚は渚、藤林先生は藤林先生ですから」
 考えていたことが顔に出ていたのだろうか、こんなところまで見透かされている。ホントにこの人には敵わない。
「分かりました。何とか頑張ってみます」
 ここまで言われたら覚悟を決めるしかない。それによく考えれば親公認ということになるし。こんな心強いことは無い。
「ええ、頑張っちゃってください」
 深刻な話だった筈なのに、最後には和んでしまっていた。もう、こうなったらやるしかない。

 善は急げ。早苗さんと別れて、その足であいつの家に向かっていた。辿り着いたのは安アパートの一室。
 深呼吸をしてドアをノックする。
 少し時間を置いて、ゆるゆると足音が近づいてくるのが解った。
 ガチャリ。
 扉が開く。そこには、娘を全力で守る為に全てを捨てた父親が居た。
「杏…どうしてここに?」
 突然の来訪に驚いたようだ。
「どうしてもこうしてもないでしょ。教え子がずっと休んでるんだから様子ぐらい見に来るわよ。そ、そうよ。飽くまで汐ちゃんの様子を見に来たんだからね」
 意気込んで来たものの、ついつい取り繕ってしまう。
「…立ち話もなんだ、上がってくれ」
 怪訝な顔をしながらも中へ通してくれる。
「お邪魔します」
 そう言って、部屋に入る。必要最低限のものしかない、本当に質素な部屋だ。その片隅。布団の上に、汐ちゃんは横たわっていた。その枕元には、だんご大家族のぬいぐるみ。渚が大好きだったそのぬいぐるみは、汐ちゃんにとっては母親の大切な形見なんだ。そう思うと、切なくなる。ここは、朋也と渚と汐の家だ。その間に割り込むことなんて出来っこない… 部屋に残る渚の面影にそんな事実を突きつけられた気がして、気持ちが折れそうになる。
「汐ちゃんの具合はどうなの?」
 何か言わないとと思ったけれど、気の利いた言葉も出てこない。出てくるのは、当たり障りのない言葉だけ。
「今は、大分落ち着いてる」
「そう…」
 確かに、汐ちゃんの寝顔は安らかだった。きっと今は体調がよいのだろう。それを見て少し安心して、本題を切り出す。
「早苗さんから聞いたわよ。あんた仕事まで辞めちゃって、これから一体どうするつもりなの?」
「まだ貯金があるから暫くは持つ筈だ。今はそれよりも、汐の傍にいてやりたいんだ。今まで、5年間もほったらかしにしてたから。あいつの父親は俺なんだ。俺がやらなきゃいけないんだ」
「でも、それでもどうしようもない時もあるでしょ! そんな時は人を頼っていいのよ。早苗さんや秋生さんなら喜んで助けてくれるでしょう? それをなんであんたはいつもいつも全部一人で背負い込もうとするのよ! それで苦しむのは汐ちゃんでしょ?」
「それでも、俺がやらないといけないんだ。これまで甘えてばかりだった。ここで又甘えてしまったら、俺はどうしようも無い奴に戻ってしまう」
「そんなことない! 何を思い上がってるのよあんたは! 一人で何でも出来る気でいるの? あんたが一人で頑張っても、それだけじゃどうしようもないことなんて幾らでもあるでしょ? 早苗さんや秋夫さんに頼るのが駄目だっていうんだったら…」
 ここで一度言葉を切る。そして思い切って言う。
「あたしを頼りなさいよ!」
 朋也は、驚いたようにこちらを見ている。一度言葉にしてしまったら取り返しは付かない。もう、覚悟を決めるしかない。
「あんたを見てると、危なっかしくて仕方ないのよ。渚はもう戻ってこないけど、あたしはここに居る。あんたの力になりたいのよ! あんたの傍で一緒に汐ちゃんを守ってあげたいの。あんたがダメだって行っても来るからね。あたしが勝手にやってるんだから、別にあんたが甘えてる訳じゃない。それでいいでしょ?」
 一気にまくし立てる。言いたいことを言ったらすっきりした。あいつは、複雑な表情で黙り込んでいた。
「相変らず無茶苦茶だな………」
 どれくらいの沈黙が過ぎた頃だろうか、そう言って朋也は初めてまともにこちらを向いてくれた。
「まぁ、止めはしない、っていうか止めても無駄なんだろう?」
「全く、相変らずひねくれてるわねぇ。だけどよく分かってるじゃない。でもね、止めてもきかないのはあんたも一緒でしょ?」
「それもそうだな」
 言って笑う。いつもの調子が戻ってきた。これで、大丈夫だろう。
「じゃぁ、今日はもう遅いから帰るわ。又明日にでも来るからね」
「ああ」

 それから、あたしは仕事が終わると朋也の家へ通うようになった。食事の準備をしたり、他愛ない馬鹿話をしたり、そんななんてことのない時間を過ごすだけ。それでも、朋也の負担をホンの少しでも減らすことが出来ればと思う。

 このまま、本当の家族になりたい。

 気が付けば、そう思うようになっていた。それは勿論、朋也とそういう関係になりたいということだ。毎日のように朋也の家に通ってはいるが、実際はちょっとした家事を手伝っているだけだ。泊まっていくこともなく、健全なもの。あいつはあたしをある程度は受け入れているものの、どこかで壁を作ってそれ以上は寄せ付けない。やはり、渚のことがあるからだろう。中々、背負っているものを預けてはくれない。けれど、そういう奴だってことはよく知っているから、今は地道に出来ることを続けていこう。

 そうして、気が付けば秋も終わり、吐く息もすっかり白くなる頃、事件は起こった。朋也と汐ちゃんが姿を消したのだ。

 その数日前から、汐ちゃんの体調が悪化していた。これまでは、熱が上がることがあっても、直ぐに微熱程度までは下がっていたものが、ここ数日は中々下がらなかった。熱の原因が解らない以上、ただ食べられるものをしっかり食べさせて、ゆっくり休ませる以外に出来ることがないのがもどかしい。ホントは仕事を休んでずっと一緒に面倒を看てあげたいけれど、そんなことをしたら間違いなく朋也は拒絶するだろう。結局、この数日間、あいつの笑顔を見ていない。苦しそうな汐ちゃんと、深刻な表情で黙々と汐ちゃんの世話をする朋也を見ながら、やり切れない日々を過ごしていた。

 その日、いつものように朋也のアパートの前に着くと、灯りが点いていないことに気づいた。冬の夕暮れは早い。この時間帯に灯りを点けない筈はない。
 嫌な予感がした。
 部屋の扉の前まで駆けると、そのままの勢いでノックをする。

 コンコン…
 コンコン…
 コンコン…
 コンコン…
 コンコン…
 ドンドン…
 ドンドンドン…

 幾らノックをしても返事は無かった。そうこうしている内に、何事かと隣の住人が顔を出した。
「あの、岡崎さんを知りませんか?」
 これ幸いと声を掛ける。
「え、あ、夕方ぐらいに出かけられたみたいですよ、娘さんと一緒に」
 いきなり声を掛けられて面食らいながらも、質問に答えてくれた。しかし、その内容はとんでもないものだった。
「出かけるって、どこへ?」
「そこまでは… ただ、楽しそうに出かけていったので旅行にでも行くのかと思ったんですが…」
「解りました。ありがとうございます」
 怪訝な顔をする隣人を残し、お礼もそこそこに駆け出していた。あのバカ、病気の汐ちゃんを連れてどこへ行く気なの?
 
 思わず駆け出したはいいが、あいつの行き先はどこだろう? 気が動転してとにかく走っていたが、あいつの姿を見つけることは出来なかった。それどころか、自分がどこに向かっているのかもよく解らない。ただただ走るだけ。
 無目的に走り回って、疲れてくると少し冷静になってきた。一旦気持ちを落ち着けて、改めてあいつの行き先を考えてみたが、思いつかない。今の状態だと考えにくいが、強いて心当たりがあるとしたら渚の実家だろうか?
 どちらにしろ、早苗さんに連絡をとるべきだろう。本来なら、真っ先に連絡すべきだったのに、今になって気づくなんて全くえらく取り乱したものだ。携帯電話を取り出すと、古河パンの番号を呼び出す。
 トゥルルルル…
「はい、古河です」
 程なくして、早苗さんが電話を取った。
「あ、藤林ですが、朋也はそちらにいますか?」
 余り期待はしていないが取り合えず聞いてみる。
「いえ、来ていませんが、何かあったんですか?」
 予想通りだった。先ずは状況を説明しないと。
「実は…」
 語り始めたものの、一体何をどう言ったのかよく覚えていない。とにかく必死で状況を伝えた。どうにかこうにか話し終わった時には、秋生さんも朋也と汐ちゃんを探しに出て、早苗さんは家で待機しているということになっていた。見つけたら、家の方に連絡を入れる段取りだ。

 あたしは冬空の下、あいつの姿を求めて走り回った。空には厚い雲が垂れ込め、少しずつ白いものを散らし始めていた。
 まったく、熱のある汐ちゃんをこんな寒空の下に連れ出して、何をしようというのだろう? お隣さんは「楽しそう」とか言ってたけど、まさか行き詰って心中とかする気じゃないでしょうね?
 ここで、ふと、思い出す。
 そういえば、お隣さんは他にも何かひっかかることを言っていた気がする。
 何だったっけ?
 ………。
 そうだ「旅行にでも行くのかと思った」と言っていたのだ。ただ楽しそうなだけで旅行には結びつかないだろう。きっとそれなりの荷物も持っていたのだ。
 そうなると夏のことが思い出される。もしかして、ホントにあいつは汐ちゃんを旅行に連れて行こうとしているんじゃないだろうか? あいつならやりかねない。汐ちゃんにとって、父親との楽しい思い出は旅行しか無い筈なんだ。楽しみにしていた運動会にも出れず、それからは部屋で寝込んでいたのだから。
 旅行なら駅に向かった可能性が高い。そちらに行ってみよう。

 そうして、アパートから駅へ向かう道の途中に、果たしてあいつと汐ちゃんの姿があった。

 雪の振る中、あいつは汐ちゃんを抱きしめて座り込んでいた。
「何やってんのよ!」
 駆け寄りながら、思わず声を荒げてしまう。しかし、反応は無い。
なんて事だろう。どうして、こんなことになってしまったんだろう。
「熱のある汐ちゃんを連れて外に出るなんて、一体何考えてんのよ!」
「こいつが、旅行に行きたいって言ったんだ…」
 力なく応える声。こんな朋也、見ていたくない。
「だからって…」
 予想通りとは言え、何も言えなくなる。こういう奴なんだ、朋也は。本当に何とかしてやりたいと思ったからこそ、汐ちゃんを連れ出したんだ。駅にさえ辿り着けなかったというのに…
 でも、今は考え込んでいる場合じゃない。
「直ぐに、救急車呼ぶからね」
 携帯電話で119番する。直ぐに電話はつながり、場所を告げる。
 程なくして、サイレンの音が近づいてくる。
 待っている間、あいつはただ汐ちゃんを抱きしめるだけだった。あたしも何も言えず立ち尽くしていた。汐ちゃんは大丈夫だろうか? あいつが必死に抱きしめているが、項垂れたままぐったりしている。
 結局、救急車が到着するまで二人ともそのままだった。

 あたしは、二人に付き添って病院へ向かう。早苗さんと秋生さんにも連絡し、病院で合流することになった。

 運ばれた病院は、かつては町外れの森だった場所に建てられた大病院だ。この病院が出来るまでは、隣町まで行かなければ大きな病院はなかった。ここが出来たお陰で救われた命もきっと沢山あるだろう。でも、かつてボタンを拾った空き地が無くなったときも感じたけれど、何とも言えない寂しさを感じてしまう。

 病院に着くと、汐ちゃんは直ぐに治療に運ばれていった。汐ちゃんの意識は戻らない。朋也も、あれからは朦朧とした状態でまともに話の出来る状態ではなかった。程なく合流した早苗さんと秋生さんと共に、待合室で言葉も無くただただ待つだけだった。

 永遠とも思える時間が過ぎて、やっと医師が現れて状況を伝えてくれた。
 汐ちゃんは高熱を出してはいるが、肺炎を起こすことも無く、命に別状はないということだった。
 皆、この報告に胸を撫で下ろす。
 ただ、発熱の原因を探る為に、暫く入院して詳しく検査を受けることになった。

 不思議なことに、入院した日の内に汐ちゃんの熱はみるみる下がり、まだ微熱は残っているものの話が出来るぐらいにまで回復していた。あの寒空の下で肺炎にならなかっただけでも幸運なのに、こんなに早く回復したことに医師達も当惑気味だった。ただ、朋也と秋生さんだけが何か訳知り顔で目配せし合っていた。

 その後、一週間ほど入院して検査を受けたけれど、結局これまでと同様に汐ちゃんの熱の原因は解らずじまいだった。今のところ、微熱以外に異常も見られないことから、退院して自宅療養ということになった。

 入院することになって初めて知ったのだが、朋也の貯金は既に底を突きつつあったらしい。流石に、入院費用を払わない訳にもいかず、結局秋生さんからお金を借りることになった。
「別に、孫の入院費用を出すだけだから気にする必要なんてねぇんだぞ」
「いや、そんな訳にはいかねぇ。絶対に返すからな」
 全く、意地っ張りである。しかし、
「それじゃぁ、又働かないといけませんね。収入が無いと返しようがないですもんね」
 と、早苗さんが上手いこと言葉尻を捕らえる。笑顔でこんなことを言われたら断りようも無い。
「…そうですね、やっぱりそれしかないですね」
 観念した様子で、聞き入れる朋也。
「働いている間は、わたしと藤林先生で汐の面倒を見ますから、安心して仕事をしてくださいね」
「すみません、又甘えてしまいます」
「何を言ってるんですか。わたし達は家族なんですから、困った時は助け合えばいいんです。それに、藤林先生も助けてくれますから」
 そこでやっとあたしに出番が回ってきた。
「ええ、あんたはしっかり稼いでくればいいのよ。汐ちゃんのことは早苗さんとあたしに任せなさい」
 思わず『あたし』という部分を強調してしまう。
「すまない」
 大人しく受け入れる朋也。それをいいことに畳み掛ける。
「それと、やっぱりあんたはあたしが付いてないとダメなのよ。これまで以上に世話を焼かせてもらうわよ! 嫌だって言っても聞かないんだからね。もう決めたんだから!」
 自分でも無茶苦茶言っているのが解る。でも、そんな風にしか表現出来ない。不器用で遠まわしだけど、これが精一杯の愛情表現とでも言えようか… 自分で言ってて照れくさいけど。

 それから直ぐに、朋也は元の職場に復帰して仕事を再開した。一方的に辞めたにも関わらず、幸いなことにすんなりと復帰することができた。それだけ、必要とされていたということだろう。

 あいつが働いている間は、約束通りあたしと早苗さんで汐ちゃんの世話をした。とは言え、あたしにも仕事がある。幼稚園が終わるまでは、早苗さんが面倒を看ることになる。
 朋也と入れ替わりに早苗さんがあいつの家へ行き、あたしの仕事が終わったら早苗さんと交代し、あいつを迎える。それが日常となっていった。

 そんな生活が続き、冬の寒さも退きつつある春休み。あたしは早苗さんと交代で日中も汐ちゃんの世話をすることにした。幼稚園の仕事が休みの時ぐらい、早苗さんの負担を減らしたいと思ったのだ。同時に、もっとこの家族との絆が欲しいと思った。少しでも長く汐ちゃんの傍にいることが、この家族との絆を深めてくれると感じていたのだ。

 春が近づくにつれ、汐ちゃんの体調は快方に向かい、時々は起き上がれるぐらいになっていた。一緒にだんご大家族を歌ったりもした。この調子なら、春からは普通に生活出来るようになりそうだ。幼稚園を休んだ分も直ぐに取り返せるだろう。何しろ担任は他ならぬあたしなんだから幾らでもフォロー出来る。まだまだ、安心は出来ない状態だけれど、こうやって汐ちゃんを見守っていると、自分が本当の母親になった気になってくる。

 ささやかだけれども、今のこの生活が幸せだった。まだ、完全に認められた訳ではないけれど、朋也と家族同様の位置にいられることが嬉しかった。
 こうして今日も、あたしはあいつの帰りを待つ。この家族の本当の一員となる日を夢見ながら。それがきっと、そう遠くない未来であると信じて。

「家庭の過程」 完

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