憧憬眼鏡

眼鏡娘になる過程の事情 PART1

〜この物語を、フェチと純愛との狭間で揺れる全ての若人に捧ぐ〜

 土曜日の昼下がり、他にやることもなく男二人で見るとはなしにテレビを眺めていた。
 ここは学生向けマンションの一室。一人暮らしの掛野弦太《かけのつるた》の部屋に押しかけているのは、限りなく悪友に近い親友の継目智《つぐめさとし》である。
 弦太の部屋は妙に設備が整っている。主要な家庭用ゲーム機は一通り揃っているし、パソコンも複数台ある。インターネットも光回線。とても高校生の一人暮らしの部屋とは思えないぐらい恵まれた、充実の環境である。これだけ遊び道具が揃っていればクラスメート達の溜まり場となったりするものであるが、ここへ足を踏み入れようという人間は少なかった。
 部屋の壁を埋め尽くすポスター群や複数機種に跨り存在する同じゲームのパッケージと大小様々な初回特典の数々。机上にずらりと並んだ美少女フィギュア。これらが醸し出す雰囲気が溜まり場となることを拒んでいるのかもしれない。
 そんな部屋でゲームにも飽き、とりあえずテレビを適当なチャンネルに合わせてボンヤリしていた時のことである。
「何だ今のCMは! これは眼鏡に対する差別を助長する由々しき問題だ。公共広告機構に訴えてやる! いや、眼鏡会社に代わって営業妨害で訴えるべきか?」
 突然、叫ぶ智。そのCMとは、コンタクトを日替わりのものにして『目の健康を考えた』とかいうものである。これまでのコンタクトが辛くて眼鏡に替えていた登場人物が、友人に勧められて日替わりのコンタクトにして『めでたしめでたし』というストーリーである。実際は、辛いなら無理にコンタクトにするよりもそのまま眼鏡で過ごす方が目の健康によい筈である。にも関わらず、頭から眼鏡を否定するかのような描写が、そのCMには確かに含まれていた。
「いいか、目の健康を考えるなら異物を挿入するよりも非接触の眼鏡の方がいいに決まっているだろうが! 実際、普段コンタクトをしていても、家などでは『疲れるから』とかいって眼鏡の人もいるだろう? それだけでも眼鏡の方が目に優しいという証拠になろうというものではないか!」
 ここまで聞けばお分かりと思うが念の為。智は『眼鏡フェチ』である。それもちょっと病的な。もしもこの世に眼鏡を信奉するカルト教団が存在すれば間違いなく入信していることであろう。行き着くところまで行き着いてしまえば、教祖になってコンタクトレンズ工場を襲撃しかねない勢いである。
「ええい、落ち着かんか!」
 バチン、といい音をさせて智の後頭部をはたく弦太。
「何故にお前は眼鏡が絡むとそうなんや? それさえなきゃぁええ目も見れてたやろうに……」
 と、いつも通りに突っ込めば、
「何を言う! 何度も言っているだろう? 眼鏡あっての僕だ。眼鏡に対するこだわりを捨てた時点で僕は僕でなくなる。その状態を評価されたところで、結局は僕が評価されたことになどならないのだよ」
 後頭部の痛みもなんのその。これまたいつも通りに反論する。
「はいはい、解りました。それはええからもう少し落ち着いてくれ。ここは俺の部屋なんやからな。防音効いてるからそうそう近所迷惑にはならんと思うが、スイッチ入った時のお前の声は際どいぐらいのボリュームなんやから」
 水掛け論になるのが解っているので折れることにする。このような遣り取りにもすっかり慣れたものだ。
 弦太が初めて智の眼鏡に対する過剰反応を見たときは、ついつい論争を挑んでしまった。その結果、夜通し智の眼鏡論を聞かされる事になり、危うく自分にも眼鏡の女神様が見えてしまいそうなぐらい追い詰められることとなった。それ以来、眼鏡絡みの話題では余り突っ込み過ぎないように心掛けている。智は、こと眼鏡が関わると恐ろしく弁が立つのだ。それはもう、別のことに向ければ今の社会に少しは貢献出来そうなぐらいのレベルだった。幸いにして智は眼鏡に固執してその良さを主張しはするが、他人にそれを押し付けることはしなかった。その良さを理解して好きになるかどうかは相手次第であるということをしっかり認識しているし、そもそも半端な気持ちで眼鏡に接して欲しくないという思いがあるからだ。それがなければ、弦太は今頃洗脳されて眼鏡っ娘依存症になり、あらゆるギャルゲーの眼鏡っ娘をチェックするのが習慣化していたに違いない。智の眼鏡に対するこだわりはそれぐらいの威力を秘めていた。

 ところで、弦太が言っていた『ええ目』というのは、どういうことであろうか?
 それは、ありがちな表現をすれば『モテモテな状態』とでも言えよう。漫画なんかでよく出てくる『学校中の女生徒の憧れの的』に近い状況を、智は望めば手に入れられる位置にいたのだ。そう、高校入学当時、智は女子に大人気だったのである。

 容姿端麗。
 頭脳明晰。
 運動神経抜群。

 智はこのような異性の人気を得る為の要素を一通り備えた男なのだ。
 にも関わらず、せっかくの土曜の昼下がりにこんなところで男二人ボンヤリしている現在の状況の理由は、他ならぬ『眼鏡』にあった。

 授業で当てられれば、それがどんなに唐突であろうとも常に的確に答える。
 体育では、個人競技なら常に上位、団体競技では中心的な活躍を果たす。

 ただでさえその容姿が目を引く中で、入学早々の授業からその成績優秀ぶりとスポーツ万能ぶりは目を見張るものがあった。更には、高校入学のタイミングで遠方から引っ越してきたこともあって、中学以前の彼を知る人間はこの高校にはいなかった。それはつまり、彼の特殊な趣味嗜好を知る人間が誰もいないということを意味する。幸か不幸か、その『誰も過去を知らない』という点が神秘性となり、智への周囲の興味をより煽ることとなったのは、後の状況を考えれば皮肉なこととも言えよう。
 そんな様々な要素が相俟って、智の人気は爆発的に高まっていった。入学して一週間程で女子の取り巻きのようなものが出来上がるまでのモテ様は、一種の必然とも言えよう。
 
 しかし、この状況、智にとってはどうだったのであろうか?

 智にしてみれば、元々自分に主導権がない状態で出来上がった取り巻きである。正直、勝手にまとわりつかれて鬱陶しいぐらいだった。だが、相手も悪気があってやっている訳でない。それを無碍にするのも気が引ける。
 どう対応したものか考えた結果、ある程度の距離を保って当たり障りなく付き合うようにすることにした。そういう中途半端な接し方を続けていれば、その内に飽きて取り巻きも離れていくだろうと思ったのだ。
 しかし、思惑通りにはいかないもの。そんな付かず離れずの接し方が、女子達には『公平に分け隔てなく付き合ってくれる』と評価されてしまったのだ。その為、飽きて離れていくどころか、人気がより高まって取り巻きの数が増える始末だった。

 そんな微妙な状況がしばらく続いた後、状況は一転することとなる。

 こういう状況が続くと、取り巻き達の間で暗黙の了解として『抜け駆け厳禁』というようなルールが生じるものである。だが、一方でいつの世もルールを破る者は現れる。
 そうして、取り巻きの中でも中心的な位置にいた一人の女生徒が、抜け駆けして智に告白するというイベントが発生することとなった。
 だが、決定的なフラグが不足していた。
 
 何ということであろう、その女生徒は眼鏡っ娘ではなかったのだ!

 だから、告白に対する智の答えは単純明快であった。
「すまない、裸眼の女に興味はないんだ」
 容赦ないと言えば容赦ない、予想もしなかった答えにその女生徒は呆然と言葉を失ってしまう。そして、少し落ち着いて言葉の意味を理解し、反芻する内に段々と行き場のない怒りが込み上げてきた。
「な、なんなん、それ? 『裸眼』って。そんな訳解らんこと言わんといてよ。私は真剣なんよ。それやのに……。私が気に入らんからってバカにしてるん?」
「バカになどしていない。真実を語っているだけだ。眼鏡に捧げたこの命。眼鏡っ娘以外の告白を受け入れる訳などなかろう」
 絶句。そして。
「そ、そんなに眼鏡っ娘が好きやったら、あんたなんか眼鏡の国に行ってまいなさいっ!」
 キレて自分でも訳の解らない罵倒をしてしまう。しかしそれは火に油を注ぐが如し。
「そんな国があるならとっくに行っている!」
 と自信満々、誇らしげに力強く言い切る。
「あ、あんたみたいな変態、好きになったあたしがバカやったわ。あんたが眼鏡フェチの変態やって皆に言いふらしたるんやから。あんたの人気なんか地に落ちてまえばええんや!」
 そう捨て台詞を残し、今ではフられた悲しみよりも悔しさと怒りの比重の高い涙を浮かべながら、走り去る。
「別に、言いふらされて困るものでもないのだが……。まぁ、仕方ないか」
 智にしてみれば、自身が眼鏡フェチであることは自明のことであり、隠し立てするような疚しいものではない。それで『変態』と称されるならそれはそれで受け入れるのみ。
 だが、自身のその信念が彼女を傷つけてしまったのは紛れもない事実だ。その点に関しては罪悪感を抱きつつ、自分が好きなものに対する信念を貫くのは難しいものだと改めて身に染みる智であった。

 その後、女生徒は律儀に捨て台詞通りの行動を取っていた。
 彼女に出来る精一杯の誇張表現を用いて智の変態ぶりを吹聴して回ったのだ。悪い噂の広がるのは速い。瞬く間に『智は眼鏡フェチの変態』というレッテルが女子の間に浸透していった。そうして女生徒の思惑通り、智はすっかり幻滅され、あっという間に人気も失墜したのだった。
 だが、智にしてみれば、そもそも周りが勝手に騒いでいただけで自身が望んで勝ち取った人気ではない。だから、実害はなかった。むしろ、必要以上に付きまとわれることがなくなり、気も遣わなくて済むようになってスッキリしたぐらいだった。
 それに、取り巻きの中に眼鏡っ娘が一人もいなかったものだから、余計に興味は薄かったというのもある。あれだけの女生徒がいたにも関わらず、一人も眼鏡っ娘がいないのも不思議なことである。最初の内はいたような気もするが、気が付いたときには一人として眼鏡っ娘はいなくなってしまっていた。そのように、取り巻きに眼鏡っ娘がいない時点で、彼女達が如何に自分のことをちゃんと見ていなかったのかがよく解る。表面的な部分だけを見て寄って来たような人間にチヤホヤされても、実のところは辟易するばかりだ。

 実はここに、悲しいすれ違いがあった。

 取り巻きに眼鏡っ娘がいなかったのには歴とした理由があったのだ。取り巻きの中に、少しでも自分をよく見せようと、それまで眼鏡だったものをわざわざコンタクトに替えた人間が現れたのだ。一人替えれば負けてなるものかと、取り巻きの眼鏡っ娘達がこぞってコンタクトに替え始めるのは道理。その結果として、取り巻きから眼鏡っ娘がいなくなってしまったのだ。それが真逆の効果であるとも知らずに。
 そんな偶然の悪戯もあったが、それ以前の問題として智自身が取り巻きを疎ましく思っていたのは事実。全く女子に相手にされない状況に陥ることとなったが、煩わしさから解放され、智自身はさして問題としていなかった。
 一方で、この状況は他の男子から同情を買うこととなった。これまでは女子の人気を独り占めすることから煙たがられていたのだが、この事件以降は普通に声を掛けて貰えるようになったのだ。中でも、最初からオタクで変態のレッテルを貼られて孤立しながらも、自分の道を貫く弦太とは意気投合し、二人でつるむようになっていった。
 
 そうして、すっかり弦太の部屋が居場所となって半年が過ぎ、現在の無為な土曜の昼下がりに至ったという訳である。

◆ Intermezzo 〜間奏曲〜 1 ◆

 そっか、継目君は眼鏡っ娘が好きなんや。
 う〜ん、でも困ったなぁ……。
 わたしの視力は両目とも1.2。
 眼鏡が必要な視力やない。
 あの調子なら、伊達眼鏡とかではあかん気がする。
 それなら。
 今日から、夜は暗い部屋で本を読もう。
 テレビは近くで長時間続けざまに見よう。
 そして、視力矯正が必要な視力となった時。
 その時が勝負の時。

 夏休みが終わり二学期が始まる頃。智はそれまで程に女子から邪険に扱われることがなくなってきていた。時間が経って、周囲も智の趣味に免疫が出来てきたようだ。
 ただ、智がこっぴどくフった女生徒、夏野雪《なつのゆき》が女子グループのリーダー格で、根に持つタイプだったりしたものだから、その辺、話はややこしい。それは、智と必要以上に接すると、このグループに目を付けられるという状況を創り出していたのである。よって、理由に変化は生じてきているものの、智に近づく女子がほとんどいない状態に変わりはなかった。

 それでも、半年もあればチャレンジャーは現れる。
 重度の眼鏡フェチはともかく、智の見てくれはいい。それでいて、今の状況では寄り付く女生徒はいない。ならば、

 眼鏡になって言い寄れば簡単にモノに出来るだろう。

 そんな風に勝手に思い込んだ女生徒が出現しても全く不思議はない。又、一種のステータスのように、とにかく彼氏を求めるような人間もいるものだ。かくして、そんな一人の女生徒が、眼鏡を引っ提げて智にアタックを掛けたのだった。

 結果は、惨敗。

「……君は、僕を馬鹿にしているのか?」
「え? 何言《ゆ》うてるの?」
「僕は君のことなど知らないし、一体君が僕の何を知っているというのだ? ロクに話もしたことのない人間に突然告白などされても戸惑うだけで正直迷惑だ!」
「だ、だってほら眼鏡やよ?」
「眼鏡を馬鹿にするんじゃないっ! しかも君のその眼鏡は何だ? 明らかに伊達眼鏡ではないか!」
「え、え?」
「不愉快だ。二度と眼鏡を冒涜するような真似をするなっ!」
 そう言い放って、踵を返す。有無を言わさない。後には、呆然と佇む少女が残された。
 
 この事件の後、再び悪評を流されることとなったのは言うまでもない。

「智、またまたやらかしたらしいな?」
 再び眼鏡絡みで女生徒をフった翌日、一限が終わるなり弦太が声を掛けてきた。噂の広がるのは速い。
「ああ。こればっかりは譲る訳にはいかないからな。全く、僕の何がいいのだか……。自分を理解しようとしない人間に告白などされても迷惑なだけだ」
「……まぁ、告白される身分なだけええとは思うが、確かにそれも一理あるな」
 お互い特殊な趣味を持った者同士。周りの共感を得るのが如何に難しいかをよく知っていた。特に『学校』という小さな社会の中では簡単に特異点は攻撃を受けるのだ。
 智の場合、そこで話をややこしくしているのは、眼鏡フェチの部分を除けば受けのいい要素を備えている点だ。それ故に、昔から今回のような勘違い女に「眼鏡をかけてりゃいいんでしょ?」といった感じで何度も告白を受けてきた。そのような女の方にして見れば『眼鏡さえしていればモノに出来る』と智を軽んじているところがある。本来であれば人気者となるに十分な要素を持ちながら『眼鏡フェチ』というどうしようもない要素を併せ持つ。そのギャップが「眼鏡ならいいんでしょ?」という理不尽な軽視に繋がるのだ。
 その軽視の元は、特殊な趣味の人間を見下す風潮に起因するものであろう。実際のところ、趣味は人それぞれで、そもそも『特殊な趣味』という言葉自体が差別的な表現なのである。『ナンバーワンよりオンリーワン』とかいった言葉が流行るわりに、この点を理解しないところが日本の国民性の問題点と言えよう。『オンリーワン』ということは誰もが他者に対して『特殊』ということに他ならないのに。それでも多数決原理から抜け切れないからこそ、智や弦太のような『特殊な趣味』に分類される趣味を持つ者が迫害を受けねばならないのである。全く理不尽な世の中である。野球の球団を全部言えてもオタク呼ばわりされないが、アニメの声優の声を2、3人聞き分けるとオタク扱い。さて、本来的にオタクに近いのはどちらなのか? 前者の方が明らかに知識を必要とするという意味ではマニアックと言えまいか?
 又、智に告白してくる人間は必ずと言っていい程、話したこともないような人間ばかりだった。ある程度近い人間はその趣味の為に敬遠する。そして若干の距離のある者が寄ってくる。見た目が目立つだけに、相手は自分を理解した気になっているが、こちらにしてみれば相手のことなど全く知らない。テレビに出ている有名人をこっちがよく知っているからといって相手も自分を知っているような錯覚を抱く輩がいるが、ちょうどそんな感じだ。自分を知ろうともしない人間の告白を受け入れる道理など無い。智は眼鏡論を語るが、だからといって眼鏡なら何でもよいというような浅はかな人間ではないのだ。眼鏡に関するスタンスもそうだが、あくまで相手に『理解』して貰えるように努めるのが智の信条だ。そして、自身も相手を理解しようと努める。今まで、自分の趣味を理解されず、又、逆に外面が目立つ為に内面を見て貰えないという苦悩を抱えてきて辿り着いた信条である。そんなある意味当たり前とも言えることが、目立つ外面と特殊な趣味でデフォルメされる智にとっては困難だったのである。
 二人の間では既に定番となった、要約すると大体このような内容の議論が繰り広げられている最中《さなか》、
「そこ、次教室移動やねんから早《は》よ準備して。教室出てくれんといつまでも施錠でけへんやん」
 議論に夢中になっている智と弦太に苛立った鋭い声が掛かる。見回すと、教室に残っているのは智、弦太、そして声の主のお下げ髪の女生徒の三人だけになっていた。彼女はクラス委員長で、周りから敬遠されがちな智と弦太にも普通に声を掛ける数少ない女子である。自分からクラス委員長に立候補し、その職務を全うする典型的な優等生タイプだった。職務に忠実であるが故に、時にキツいこともある。最近は目つきが悪くなってきたと評判で、今も目を細めて睨むように二人を見ていた。
「はいはい、解りましたよ、委員長」
 弦太はやれやれという感じでそう言って自分の席に戻ると、手早く教科書とノートを取り出す。
「いつもすまないな、烏丸《からすま》君」
 智は本当にすまなそうに言って次の授業の道具を取り出した。因みに『烏丸』というのは委員長の苗字である。
「謝るぐらいならいつもいつも話しに夢中にならんと、もう少し周りを見て欲しいもんやわ」
「ごもっとも」
 そう言って席を立つと、準備の出来た弦太と合流して次の授業の行われる化学実験室へと向かう。
 その背中に、
「ああ、それと、また騒ぎ起こしてるみたいやけど、もうちょっと周りの迷惑も考えてくれへんかなぁ? 委員長としてクラスの人間のいざこざを見過ごす訳にいかへん身にもなって欲しいもんやわ」
 と若干嫌みったらしい音色の籠もった声が掛かる。
「いや、こればっかりは譲れない。迷惑を掛けて申し訳ないとは思っているんだがな」
 毅然と返す智。
「はいはい、分かってますよ。流石に半年もあれば大体あんたのキャラは掴めてるから」
 溜息混じりに委員長。
 その言葉に複雑な表情を浮かべながら、智は教室を後にする。

 少し間を空けて、最後に誰もいなくなった教室を一通り見回した後、委員長は扉の施錠をして化学実験室へと向かうのだった。

◆ Intermezzo 〜間奏曲〜 2 ◆

 継目君が『眼鏡フェチの最低男』いう話を雪ちゃんから聞かされた。
 その噂は瞬く間に学校中に広がった。
 いや、正確には『広められた』いうべきか。
 ご苦労なことに、フられた腹いせにあることないこと触れ回ってるらしい。
 どうやら継目君の社会的抹殺を図ってるみたい。
 雪ちゃん達のグループは影響力が大きい。
 だから、仲間外れになるのが嫌で眼鏡をやめる子もおったりする。
 『眼鏡やと継目君に襲われる』やとかなんやとか、まことしやかに語られてる。
 確かに、噂になってるようなこだわりはちょっと不気味なものがあるかもしれへん。
 でもまぁ、人の嗜好なんて色々やん。
 ちょっと行き過ぎた趣味ぐらいで興味を失うどころか敬遠してまう程度なんて。
 そんなん、最初っから取り巻きなんてせんときゃええのに。
 まぁ、逆にこれで継目君にちょっかいを出そういう人もおらんようになったってこと。
 それはそれでよしとしよう。
 わたし自身も、変に目ぇつけられても面白ない。
 何よりまだまだ裸眼で大丈夫な視力やから、しばらくは大人しくしてた方がええやろう。
 けど、打てる手はある筈。

 さて、孤立した生徒に声を掛けても不自然でない立場って何かあったかなぁ……。

 吐く息も白くなって久しい三学期のある日。一つの爆弾が投下された。

 智のクラスの委員長が、突然眼鏡っ娘になったのだ!

 眼鏡、お下げ、委員長。眼鏡っ娘好きにとっては三種の神器とも言えるこれらのステロタイプな組み合わせ。凶悪な萌え要素の権化。それも、眼鏡は通好みのウェリントン型黒縁セルフレームで飾り気のないものときている。これで興味を引かれなければ嘘である。

 彼女の名前は烏丸柳夏《からすまりうか》。

 今までも委員長ということで智にも普通に話しかけてくれた数少ない女子でもある。地味な外見で優等生タイプと、確かに眼鏡萌えであれば『眼鏡さえあれば』と思わずにはいられない女性であった。

「なんだ、烏丸君。突然、その、眼鏡とは」
 戸惑いながらも、眼鏡好きとしてやはり声を掛けずにはいられない。ただ、声を掛けながらも大きな疑問を拭えない。智の記憶が確かならば、柳夏は目がよかった筈だ。それなのに、今は本当の眼鏡を掛けている。そう、伊達ではない。レンズ越しに見るこめかみのラインの美事なズレは、伊達眼鏡では決して表現出来ない至高の芸術である。
「ちょっと最近目ぇ悪なってきたから、進行させん為にも早めに視力矯正した方がええと思て。それに、コンタクトってなんか目に異物を入れるのが気持ち悪いから、やっぱり眼鏡がええかなって思ただけ」
「しかし何だ、今、女子の間では眼鏡は嫌われているのではなかったか?」
 ある意味、智らしからぬ発言ではあるが、押し付けを嫌う彼の性格を鑑みるとまっとうな意見とも言える。
「そんなん関係ないわ。あれって、要するにあんたに対するいじめみたいなもんやん。委員長たるわたしが加担してどうすんのよ」
 左手の人差し指と親指で縁をもって、くいっと眼鏡の位置を直しながら言う。狙っていないがこの仕草、眼鏡フェチに対しては『俯いてずり落ちた眼鏡を慌てて中指でブリッジを押し上げて直す』に匹敵する攻撃力の高い仕草である。にも関わらず、
「ごもっとも」
 意外なことに、いつもと変わらぬ様子で智が答える。
 そして、少し遅れて一言付け加える。
「まぁ、似合っているとだけ言っておこう。そのセンスは秀逸だ」
 褒められて嬉しいものの何か様子がおかしい。いや、いつも通りなのだがそれがおかしい。正直、もっと強烈に食いついてくるかと思った。しかし、いつもと変わらぬ反応に拍子抜けする。
「ありがとう」
 と微妙な表情で礼だけはしっかりと言って、柳夏は自分の席へと戻っていった。

◆ Intermezzo 〜間奏曲〜 3 ◆

 振り向いてもらう為に掛けた眼鏡。
 長い時間を掛けて辿り着いた眼鏡。
 それやのに、眼鏡になったからと変わらない関係。
 もう少し、反応があってもよさそうなもんやのに。
 やっぱり、わたしなんかに興味ないんかなぁ……。
 でも、眼鏡になったからって露骨に変わられるよりはええのかもしれへん。
 もしそうやったら、眼鏡だけが拠り所になってまうから。

 ――そんなん嫌。

 だから、はっきりさせる為にも動かんとあかん。
 そう、三学期には勝負に打ってつけの日がある。

 気がつけば二月も半ば。
 この季節を扱った物語では必須とも言える乙女イベントの到来である。
 そう、バレンタイン・デーである。
 古代ローマで恋愛による結婚禁止に反対し、密かに兵士たちを結婚させていたキリスト教のバレンタイン司祭。彼が投獄の末に殉教した日である。因みに、チョコレート云々は日本独自のもので、本来的には男性、女性関係なく愛の気持ちを綴った手紙やカードを送る日である。しかし、このお話の舞台は日本。そういう訳で『乙女イベント』などと形容するのも悪くはないだろう。

「継目君、今日の放課後、ちょっと付き合《お》うてくれん?」
 すっかり眼鏡っ娘が定着した委員長にすれ違い様にそう言われて断る道理はない。
「ああ、別に構わないが」
 その返事への喜びを噛み殺しながら、
「それじゃ、放課後、屋上で」
 と、小声で答える。余りにもベタな展開であり、智もそこまで朴念仁ではない。何が言いたいのかは想像が付く。そもそも、目が良かった筈の彼女が眼鏡っ娘になる必然性が自惚れでなければそれ以外に考えられないのだ。
 そして、自分自身、彼女に惹かれていたことも事実。
 単純に考えれば、眼鏡っ娘となった時点で決定的なフラグは立った筈である。しかし、眼鏡になる前から惹かれていた人間が眼鏡になったという事態に対応出来ないでいたのだ。それは願ったり叶ったりではある。それなのにこのモヤモヤした感情はなんだ? 眼鏡がないよりはあった方がいいに決まっている。そんなのは水が高いところから低いところへと流れることよりも自明な筈だ。それでも、今までこちらから動くことはなく、意図的にそれまでと変わらぬ態度で接してきた。何故、動かなかったのか? 否。何故『動けなかった』のか?
 ここまできたら、覚悟を決める必要がある。一体、自分はどうすればよいのか? 自分の置かれた状況について、その日一日授業も上の空で本気で考え抜き、そして辿り着いた。
 
 ――そうか、これが真理なのか。

 ならば、答えは決まっている。

◆ Cadenza 〜即興的独奏〜 ◆

 どうしたものか。
 確かに、相手にしてくれる身近な女性が烏丸君しかいないのは確かだ。
 唯一まともに話しかけてくれる。
 しかも、僕の外面だけでなく内面まで見てくれている。
 少なからず惹かれていることに偽りはない。
 しかし、大きな問題がある。
 彼女は裸眼だ。
 どうして、裸眼の女性に惹かれてしまうのか?
 僕のアイデンティティーはどこへ行ったのか?
 眼鏡でなければならない筈。
 裸眼の女に興味を持つなど悪魔の所業。
 しかし、気になるこの事実。
 一体どうしたらよいのか?
 解らない。
 眼鏡の真理よ、何処にかあらん。

 男たちがそわそわする一日も終わりを告げようとしていた。終業のチャイムが校内に鳴り響く。
 貰った事を自慢する者、密やかに新たな恋の誕生を迎えた者、貰えなくて燃え尽きる者、受け取って貰えず涙に暮れる者、貰えなかったものの「現実の女になど興味ない!」と嘯くはずが委員長から義理チョコ(思いっきり「義理チョコ」と達筆な筆書きされた白い包みに入った10円チョコ)を貰ってしまってネタに困る弦太、と最後はともかく悲喜こもごものバレンタイン・デーの終焉。誰もいない校舎の屋上に侵入した生徒が二人。勿論、智と柳夏である。

「継目君、これ」
 色々台詞を考えたけれど、気の利いたものが出てこない。結局、いつも通りの口調になってしまう。その台詞とともに、智にハート型の包みを差し出した。
 バレンタイン・デーに女生徒から差し出されるハート型の物体が何かなど、容易に想像が付く。だからこそ、智は躊躇った。差し出された包みを前に固まってしまう。いつも毅然とした態度をとる智にしては珍しい反応だ。
 しかし、答えは出ていた筈だ。ここで必要なのは踏ん切りである。
「……」
 数秒間の沈黙の後。
「ありがとう、君から貰えてこの上なく嬉しい」
 と、正直な気持ちを口にする。その外見と相俟って何とも歯の浮くような台詞に聞えるが、これは狙ったのではなく天然である。それだけ、純粋な心から出た言葉だったのだ。
「それって、OKってとってええんかな?」
 控えめに、問いかける。
「ああ、勿論だ。白い日など待つ必要はない」
 きっぱりと言い放つ。その返事を受け、喜びに目頭を熱くしながら、
「ホンマに、頑張って眼鏡にした甲斐があったわ……」
 と言って一筋、喜びの雫が頬を伝う。
 だが、その台詞に意外な返答が返る。
「君は、僕の自惚れでなければだが、僕の趣味の為にその視力を犠牲にしてまで眼鏡っ娘になってくれた。眼鏡っ娘であることよりも、その事実が嬉しい。そこまで僕の趣味に真摯に取り組んでくれたことが。それがなくとも、君はずっと僕のことを偶像とすることなく、ちゃんと一つの人格として見てくれていた。正直に言えば、僕の方が君のことをずっと気にしていたんだ」
 訥々とその胸の内を語り始める。柳夏は驚きながらも真剣にその話に耳を傾けていた。
「しかし、そこに葛藤があった。君が眼鏡でないことがネックとなって、自分の中でその思いを肯定することが出来ないでいたんだ」
 切実な表情で告げる。
「そうして、君は眼鏡っ娘となった。だが、そこで大きな疑問が生じたんだ。眼鏡になったらそれでいいのか? 眼鏡になったというただそれだけで、全てを肯定してしまっていいのか?そんな安易で本当にいいのか? こんな新たな葛藤が僕の心に生まれていた」
 ここで少し間をおく。柳夏自身、この点は気になっていたのだ。眼鏡になって告白を受け入れられたとして、眼鏡でなくなったら「はい、さよなら」ってことになりはしないのか? 智に限ってそんなことはないと信じていたが、それでも、疑念は消えなかった。その答えを、智の口から聞ける。緊張しながら、何も言わず次の言葉を待った。
「君に呼び出されたのを切っ掛けに、自分の気持ちについてじっくり考えてみた。そして、やっと答えに辿り着くことが出来た。僕は、結果として君を好きになった。そう、今、僕が好きなのは『眼鏡を掛けた君』だ。『君が掛けた眼鏡』を好きになった訳ではない。眼鏡はこの場合、決定的であるかもしれないが、僕が惹かれる要因の一つに過ぎないのだ。そこを勘違いしないで貰いたい。よく勘違いされるんだが、眼鏡やら巫女やらメイドやらスク水を好きになる人種はそれらの要素さえ持っていたら何でもいいという訳ではないのだ。それらは『属性』と言われるが例えば僕のように眼鏡属性を持つ者なら無条件で眼鏡がいいという訳ではない。単に『眼鏡』と言っても、フレームの形状も様々、材質もメタル系、セル系と色々有る。縁〜リムの付き方についてもフルリム、ハーフリム、完全なリムレスと色々ある。更には、眼鏡の支えのパッド部分がない、ブリッジをじかに支えとするパッドレスのものもある。そう、一口に『眼鏡』と言ってもそれだけのバリエーションがあるのだ。今は『黒縁がいいねぇ』『いやぁ、丸縁リムレスもいいぞ』『何を何を、時代はアンダーフレームだ!』と眼鏡の種類についても言及すべき時代なのだ! その時代に於いて『眼鏡なら何でもいい』などというのは余りにもポリシーがなさ過ぎるというもの。そういう輩がいる事は認めるが、そんな連中と一緒にして貰いたくはない」
 若干脱線し始めたが、これは智の持ち味だと知っている。だから、大人しく聞いておく事にする。
「だから、ここだけは勘違いしないで貰いたい。僕は『眼鏡っ娘だから好きになった』のではない。『好きになった人が眼鏡っ娘になった』だけだ!」
 眼鏡は十分条件ではない。必要条件なのだ。だから、眼鏡っ娘を無条件で好きになるのではない。今回のケースでは気になる人が眼鏡になったからいいのであって、眼鏡だから好きになった訳でない。この違いこそが智が辿り着いた一つの真理だったのだ。

 長い口上だった。しかし、これは完全なOKというか、智からの愛の告白に他ならない。こちらから告白する筈が、気が付けば男の方から語られている。そんなちぐはぐさも面白いと思える。

「ところで、一個だけ聞きたいんやけど、ええかな?」
 お互い照れ臭い長い沈黙の後、柳夏がおずおずと問いかける。
「ああ、大抵のことには答えよう」
 智がきっぱりと答える。
「継目君って、何でそんなに眼鏡っ娘が好きなん?」
 と、ストレートな問い。
「単純なことだ、それは……」
 智が答える。
「ああ、それって分かる気がする。そうやね。そんな単純なことやんね、何かを好きになることって」
「そういうことだ」
 普段見せないような優しい微笑を浮かべて答える。
「だから、これからもそのこだわりは変わらない。そこだけは分かって欲しい」
「何言《ゆ》うてんの? そこを理解しない人間がわざわざ視力を犠牲にしてまで眼鏡にするとでも思うん? それに、その理由なら逆にこだわりを捨ててもらったら困るんやけど?」
 悪戯っぽく答える柳夏。
「ごもっとも」
 智は、いつの間にか柳夏に対する定番となっていた言葉を返すのであった。

◆ Overture 〜序曲〜 ◆

 入学式の日。
 体育館の場所が分からず迷い込んだ校舎裏。
 ひっそりとここにも花を咲かせる桜の木の下に、人影があった。
 絵になる姿だった。
 顔立ちは端正。
 スタイルもいい。
 時折髪をかきあげる仕草も様になっている。
 更には、風に舞い散る桜吹雪がその映像を幻想的にさえ見せる。

 でも。

 その手にあるもの。
 白地の表紙。
 眼鏡でややきつい印象のある瞳にショートカット、ブレザー姿の女の子が描かれている。
 そう、少し大きめのサイズのマンガ本を真剣に読んでいる。
 幻想的な雰囲気もぶち壊しだが、逆にそれが印象的だった。
 見た目のカッコよさと、手の中にあるマンガ本とのギャップ。
 それが不思議と親しみを感じさせた。

 気づくと入学式開始の直前。
 声をかける切っ掛けもなく。
 ぱたりと本を閉じると彼は歩き始める。
 ついていくのも躊躇われて。
 来た道を引き返してしまった。

 あの人と、知り合えたらええな。
 軽い気持ち。

 だけど。
 
 一目惚れって、こんなことをいうのかもしれへんなぁ。

「憧憬眼鏡」 完

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